第1章
飲み会で、後輩の朝比奈恵が王様ゲームの「命令」を引いた。
「この場にいる男子から一人選んで、三分間キスすること」
彼女は顔を赤らめ、その視線は私の彼氏、柏木敬司に注がれた。
「先輩、柏木先輩を三分間だけお借りしてもいいですか?」
朝比奈恵は怯えたような様子で私に問いかけた。
全員の視線が私たちに集まる。敬司は私の手を握ったまま、気だるげに彼女を見返した。
私は戸惑いながら尋ねる。
「ここには独り身の男の子がたくさんいるのに、どうしてわざわざ彼女持ちの人を選ぶの?」
「わ、私は……」
まさか私が真正面から問い詰めるとは思っていなかったのだろう。朝比奈恵は気まずそうな表情を浮かべると、渋々といった様子でソファの反対側へ移動し、他の男子に声をかけ始めた。
最初の二人の男子は、丁寧に彼女を断った。
三人目の男子は半ば酔っぱらっており、興奮した顔で同意した。
「ディープキスにする?」
その男は艶めかしく問いかけ、すでによからぬ手つきで朝比奈恵に手を伸ばしている。
「いえ、いいです、いいです……」
朝比奈恵は慌てて後ずさった。
その男が朝比奈恵の手首を掴み、無理やりキスしようとした瞬間、敬司が不意に私の手を放して立ち上がった。彼は数歩でそこへ向かうと、朝比奈恵をぐいと引き戻した。
「か弱い女の子をいじめて楽しいか?」
彼は冷笑を浮かべて問う。
朝比奈恵はまるで救世主を見つけたかのように、すぐに楚々として可憐な様子で敬司を見つめ、彼の手をぎゅっと握りしめた。
敬司は手を振り払うどころか、逆に無意識に軽く握り返した。
私の心臓が、ずしりと沈み込む。
私は無意識に手を伸ばし、敬司の袖を掴んだ。
「ちょっと頭が痛いの。寮まで送ってくれない?」
敬司が振り返り、私たちの視線が交差する。だが、すぐに彼は私の視線を避け、手を振り払った。そして低い声で言った。
「分かってるだろ、俺は行けない」
「朝比奈は俺の直系の後輩だ。先輩として、守ってやらなきゃならない」
そう言うと、彼は子供をあやすような口調で付け加えた。
「真緒、いい子だから。見てて気分が悪いなら見なければいい。数分待っててくれ」
私は再び彼の袖を強く掴む。声は緊張で微かに震えていた。
「敬司、もし彼女にキスしたら、絶対に別れるから」
一拍置いて、私は語気を強めた。
「本気だよ」
敬司は苛立ちを隠せない様子で、私の手を強引に引き剥がし、私を見下ろした。
「そんなにカタいこと言うなよ、真緒」
その眼差しには見覚えがあった。先週、ある女の子が彼に告白した時、断る彼の口調には、これと同じ侮蔑が潜んでいた。
「先輩も真面目に考えすぎですよ。ただのゲームじゃないですか」
敬司の友人が私をなだめる。
「ほんと、しらけるよね」
ある女子が小声で呟いた。
「こんなノリについてこれないならバーに来るなよ。向いてないなら来なきゃいいじゃん」
別の女子が同調する。
敬司に連れてこられた時、私は彼らのゲームがこんな過激なものだとは知らなかった。口を開いたものの、どう反論すればいいか分からなかった。
「お前はノリがいいんだな。じゃあ、ここにいる男全員とキスして回ったらどうだ?」
それまであまり口を開かなかった浅田駿之介が不意に口を開き、先ほどの女子に問い返した。
「だが、俺にはするなよ。俺はノリが悪いんでな」
その女子は顔を真っ赤にして、何も言い返せなくなった。
浅田駿之介はゆったりとした仕草で煙草に火をつけ、ライターを無造作にテーブルへ放る。彼は口角を上げ、笑っているのかいないのか分からない表情で言った。
「しらける」
私は愕然として浅田駿之介を見た。敬司の仲間である彼が、まさか私のために口を挟んでくれるとは思わなかった。
敬司が私の隣に座った時、私は彼らがすでに三分間のキスを終えていたことに気づいた。
次第に我に返り、潤んだ目でスマホを開くと、柏木敬司の連絡先を削除し始めた。
彼の視線の端が私の画面を捉え、満足げだった表情がゆっくりと消えていく。
「どういう意味だ?」
彼は信じられないといった様子で私を問い詰めた。
「見ての通りだよ。あなたの連絡先を消してるの。彼女にキスしたら別れるって言ったでしょ」
「ただの罰ゲームじゃないか。本当にそんなに大袈裟にする気か?」
彼は私の操作を止めようと手を伸ばす。
「もしあんたがゲームで他の子とキスすることになっても、私は怒らないのに」
彼が怒らないわけではない。彼はただ、私の性格が保守的すぎると考えているだけだ。本当にそんなお題を引いたとしても、私が選ぶのは罰ゲームの酒を飲むことだけだろうと。
私は彼に返事をせず、ただ静かに削除ボタンをタップし、彼の最後の連絡先を消した。
「倉橋真緒、いい加減にしろよ!」
彼は私の手首を強く掴んだ。
私たちが睨み合っている最中、浅田駿之介が新しい紙を引いた。
「この場にいる女子を一人連れ出して、一晩を共に過ごすこと」
誰かが紙の内容を読み上げた。
別の誰かが説明を加える。
「マジでホテルに部屋取るやつな……」
ボックス席は一瞬にして艶めかしい囃し立てる声に満たされた。
浅田駿之介は座ったまま動かない。彼が火をつけた煙草はまだ燃え尽きておらず、その火先が薄暗い個室の中でひときわ目立っていた。
誰かが彼を助け舟を出した。
「はは、この命令はさすがにやりすぎだろ。俺たちの駿之介はずっと潔白だし、女の子とホテルに行くわけないって」
「だよな。この命令、今まで誰もクリアしたことないし、罰として一杯飲めばいいだろ」
浅田駿之介は煙草を揉み消すと、立ち上がり、私のほうへ歩み寄ってきた。
彼は私に手を差し伸べる。
「今夜、俺と行かないか?」
声は大きくなかったが、周りの人間全員に聞こえるには十分だった。
途端に、ボックス席は静まり返った。
「駿之介、こいつは俺の彼女だ」
柏木敬司が即座に割って入る。彼は浅田駿之介を真っ直ぐに見据え、その口調には警告の色が滲んでいた。
浅田駿之介は瞬き一つしない。
「王様の命令だろ、敬司。負け惜しみはよせ」
